【参加者レポート】3/26:「生きづらさは比較できるのか?」

3月26日に開催した哲学カフェ「生きづらさは比較できるのか?」に関して、参加者であり、新たに守山で「toutoi」という哲学カフェを開催される林さんからレポートをいただきました。


今回の参加人数14名

前回のびわこ哲学カフェにてテーマ次点であった「生きづらさ」は比較できるのか?をテーマに参加者の皆さんと対話を行いました。

現在の少子高齢化、貧困や介護保険への問題対策の在り方を見ると、それぞれ抱えている問題そのものを比較することは出来ないはずなのに、講演会等を聞いた時に対策に偏りがあることに違和感を感じたことがテーマ選定の背景にあり、対話は始まっていきます。

・世代論や世代間によっても変わるが、比較すると自分の世代が疎かになってる気がする。

・精神障害や発達障害をいざ比較される事には違和感を覚える。

・「生きづらさ」を考えられる事自体、幸せで極端な話、戦争や極限状態の中では「生きづらさ」など考えない、と思うと社会が発達したからでは?

・比較どうのではなく苦しいものは苦しいし、渦中にある人はただ苦しいかと。

・そういう意味で「生きづらさ」は自分自身が抱えるものでは?

・「生きづらさ」は推し量れないもので比較が出来ないからこそ生きづらい。

・人生そのものは苦である。

・人間関係の中で「生きづらさ」が生まれるものとした場合、コミュニケーションの上手い下手も影響が及ぼずかもしれない。

・支援者側に立ったケースで主張者の「生きづらさ」への想いに強弱の差があっても、そのどちらにも支援の手が届きにくいケースもある。

・政策には予算がつきものでパイの分割にあたり、振り分けるには線引きが要るのでは?

・自分が前に進むために比較をし、自分自身の事を客観的に見ることで次へのステップを見出せる可能性もある。「比較できる」にフォーカスするとポジティブとネガティブに二分される面もある。

別の切り口として「生きづらさ」の対象を自分にフォーカスしながら話は進んでいきます。

・いつ頃から「生きづらさ」という言葉は出てきたのか?

・SNSやブログなど情報化社会がもたらしたのか?

・実際、自分自身が「生きづらい」とい言葉を使うか?

・自分は一般的にいうとマイノリティな立ち位置にいると思うが、かといって自分が不幸せと感じたことも「生きづらさ」を感じたこともない。にも関わらず生きづらそうなどと思われることに不快感もある。

・この「生きづらさ」という言葉は複合的な状況を一括しているので、そもそも比較が出来ないのでは?ということは定義がそもそもない。

・比較のしようがないものを無理やり分ける事で更に分断され寂しさや孤独を引き起こす可能性もあるが、この「生きづらさ」は自分が決めるもの。ここで今回の対話は時間が来たので終えました。

・「生きづらさ」は比較できるのか?と言うテーマで自分は比較できると感じてます。

ニュアンス的には比較してしまうといった方がいいかもしれないです。

と言うのは、5感があることが正常と仮定した場合、そこから足りてない状態があると言うのも比較対象にもなるし、あらゆる事を「自分」「世の中」などと照らし合わせてしまうのではないかなと感じました。

例えば、目で見た情報をどう判断していくか、花で見ても、咲いた、枯れた、大きい、小さい、すくすく育つ、育たない、色が鮮やか、鮮やかでないなど1つの事象でも時系列的に変化する事柄を事前の情報と比べて判断していると思います。

「生きづらさ」と言う言葉は形そのものはないかもしれませんが、背景には社会課題や貧困など頭・5感で理解できるものもあるので余計に何かと比較してしまうのかなと感じました。まぁ比較というからには条件が整ってこその比較なのかなとの一方で感じます。

まぁ、感覚機能がなくなれば比較できないかもしれないですが、それは暴論ですしね。

・印象に残ったものとして複合的なものをまとめて「生きづらさ」と定義してます。

この「複合的なもの」がポイントで本来分けられないものを予算なりをつけて対策するので話はややこしくなる。自分の中に留めておくだけならば問題は起こらないと思うが、対策などが入るから感情が入り比較が入り問題・疑問が生じるのなかと感じました。

びわこ哲学カフェ便り

滋賀県大津市で開催している哲学カフェの情報を掲載しています。

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